トワイライツ・ノーツ

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自己紹介の練習は、顔の筋肉が痛い

発声練習のせいで、普段使わない口周りの筋肉が微妙に痛いです。

職業訓練校や就職活動でかなり頻繁に自己紹介・自己紹介・自己紹介……という感じなのですがそこでふと、そもそも『自己紹介』とは一体なんだろうと考えて辞書を引いてみました。
わかっている単語でも、こうして辞書を引いてみると新しい発見があるので結構面白いものです。

辞書的な意味

【自己】
1 おのれ。自分。自身。「自己を欺く」
2 哲学で、同一性を保持して存在するあるものそれ自身。人格的存在以外にも用いられる
デジタル大辞泉より

【紹介】
1 未知の人どうしの間に入って引き合わせること。仲立ち。「知人の紹介で就職する」「友人を家族に紹介する」「自己紹介」
2 知られていない物事を世間に広く教え知らせること。「雑誌で紹介された店」「日本文化を海外に紹介する」「新刊紹介」
デジタル大辞泉より

予想の範疇ではありましたが、要するに『自分自身のことを他者に教えること』と捉えて良さそうです。

自己紹介でよくある項目

  • 名前
  • 年齢
  • ペット
  • 趣味
  • 性格
  • 経歴
  • なぜここにいるか(来たか)
  • 得意・不得意なこと
  • 名前の由来
  • 誰の知り合いか

このあたりが定番で、上手な人はここに何らかのネタを仕込んでいる印象です。

かく言う私ははっきり言って不得意なので、ささっと名前、趣味あたりを述べてすぐに席に座ってしまうタイプ。
人前に立つのが苦手な上、なんらかのテーマや発表ならいざ知らず、自分の紹介に関してはそれほど言うことも思いつかないからです……。

自己紹介には初対面用と長期のお付き合い用のふたつがあると思う

それなりに数をこなして実感したのですが、自己紹介には初対面用と長期関係構築用のふたつがあるようです。

初対面用の自己紹介は、とにかく『自分に興味を持ってもらうこと』を目的にしていると言っても良いのではないでしょうか。
たとえばちょっとした小話を仕込んだり、応対する態度を見直したり、そういうことが基本です。

一方、長期関係構築用の自己紹介というのは、自身のパーソナリティを差し出がましくない程度に言語及び非言語コミュニケーションで伝えていくことだと私は思っています。
これができていないと、『とある趣味で長年付き合いはあるけど、その他のことはほとんど知らない』ということになってしまいます。

適度に自己開示して性格や相手との共通項を把握するようにしないと、たとえば趣味が合わなくなったので疎遠になったとか、話しかけるネタがないとか、そういうことになりがちです。

一時だけ楽しければいいというのなら特定の趣味嗜好でだけ盛り上がる、というのでもいいのですが……多少趣味や環境が変わったとしてもお付き合いが続くような関係を築きたいのであれば、適度な自己開示と双方の理解は必要になってきます。

とはいえ、そもそも自己ってなんだろう

×××××な性格です。仕事は×××××をやってきました。×××××が好きです。

……という言葉を並べてはみるものの、性格は自分から見たものと他人から見たものは違いますし、これが自分だと見える形で取り出せる訳でもない。

結局のところ、「なにを考えているか」「なにに興味を持っているか」「なにをしたい/しているか」を軸に、考えていること、やっていること、感じたことを丁寧に語っていくくらいしかないのかな、と思います。
考えている/感じている/なにかをしている主体こそが「自己」なのだから、それを他人に見える形で丁寧に語っていくしかありません。

それがどう判断されるかまでは訓練で改善する部分もありますが(表情や仕草、声のトーンなど)、みんな一律に感じる訳ではないのが難しい。

私は非言語コミュニケーションが非常に苦手なので、そのせいで「話した内容」に言及されることが多いのかなあなんてふと思いました。

非言語コミュニケーション改善のために

ちょうど昨日習ったのですが、発声、笑顔、頭の下げ方……が良いと、ぐっと印象は良くなるそうです。
せっかくだし、顔のシェイプ運動も兼ねて、ものは試しに少し練習しようと思います。

余談

ガイコツ書店員 本田さん (1) (ジーンピクシブシリーズ)

ガイコツ書店員 本田さん (1) (ジーンピクシブシリーズ)

発声練習と口を大きく開く練習などなどで微妙な筋肉疲労を感じながら、第六話接客研修の話の「笑顔は筋肉」という至言を思い出しました。

A5ルーズリーフ用の自作フリーマンスリーリフィルを公開します

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目次

手帳ジプシーを繰り返し、今年の手帳は例年通りマンスリーがあるだけのシンプルなものにしたのですが、結局自作に落ち着きました。
バレットジャーナルの本を読んで、自分の理想のリフィルがなければ作ってしまえということでやってみたのですが、予想以上に便利でした。

単純に普段使っているA5のルーズリーフに自作のマンスリーの枠を印刷して綴じただけなのですが、非常に使い勝手が良かったです。

※枠だけが印刷してあり、月、日、曜日等は手書きで書き込む形になっています。

普段ノートやメモにA5のルーズリーフを使っているのですが、これにカレンダーがついていたら予定の確認が便利だろうなあと思ったことがきっかけでした。
いちいち別の手帳を広げる手間がないので……。

また、よく配られるA4サイズの用紙は、半分に折ればA5のルーズリーフファイルに軽く挟んでおくことができて便利です。

そういう訳で、もしかしたら使う人もいるのかもということで、リフィルを公開いたします。
無料のダウンロード商品として置いてあるので、必要であればお好きなルーズリーフに印刷してください。

ダウンロード用URL(booth)

twilights-nauts.booth.pm

使い方

フチなし印刷でA5のルーズリーフ(罫線入りが個人的にはおすすめですが)に印刷するだけです。
A4のルーズリーフにも同じようにできるかとは思いますが、そちらは確認していません。

裏表印刷すれば、下のように見開きで二か月確認するようにもできます。
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また、枠の都合上マンスリー欄が小さめです。
なのであえて片面印刷にし、まっさらのルーズリーフと交互にはさむとフリースペースが増えていいかも知れません。
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メリット

  • 枠だけなので、何年の何月から始めても良いし、何曜日始まりにでもできる
  • 枠を利用するだけなら別にカレンダーにしなくても構わない(1日一語とか)
  • 勉強用などのルーズリーフバインダーに綴じておくと、予定がすぐ確認できる
  • ページの増減がしやすい

使っているもの

マルマン バインダー クロッキーバインダー ファイルノート A5 20穴 F216

マルマン バインダー クロッキーバインダー ファイルノート A5 20穴 F216

プラスチックより落ち着いていて好き

現在使用中のルーズリーフ

マルマン A5 ルーズリーフ 5mm方眼罫 50枚 L1307

マルマン A5 ルーズリーフ 5mm方眼罫 50枚 L1307

水色罫線が好きなので次はこちらに変えようと思う

マルマン クリアポケットリーフ A5 20穴 10枚 L480

マルマン クリアポケットリーフ A5 20穴 10枚 L480

A4書類や細かなものをを半分に折って入れておけるので便利

一冊のノートになんでも書き込んで予定などを管理する方法ですが、確かに楽です。ただノートに書き込むとページの増減やカテゴリ別に分けることなどがしづらいのでそこが不満だったのですが、今回のようにルーズリーフバインダーを使うことで解消しました。

こちらだけが知っている人の訃報を受け取る、ということ

三十路まで生きると、それなりに訃報を聞くことが増えてきます。

私が訃報を聞いた一番古い記憶は、小学生の頃。
親の知人の息子さんで、小さな頃に私も何度か遊んでもらったことがあるという人だったそうです。
しかし当の私は息子さんのことは覚えておらず、また『死ぬ』ということについて実感を伴っていませんでした。

もちろん、それまでに読んできた物語の中で登場人物が死ぬということは何度かありました。

死ぬというのは、
息をしなくなって
心臓が止まって
二度とその人とお話ができなくなって
周りの人がすごく悲しむこと
ということは知っていたけれど、まだまだ自身の感情には結びついてはいませんでした。

息子さんが亡くなったのは突然のことで、お通夜のときにまだ生前のままの部屋に入れてもらったと記憶しています。
特に散らかりすぎてもいない、逆に片付き過ぎてもいない人の気配がどこかに残る部屋を、悲しそうに見ている人たちが印象に残りました。


その後も時折父母の知人や友人のお葬式に参加し、自分の身近なところでは祖父が亡くなり――そして好きな作家さんや有名人など、自分だけがお相手のことを知っている人の訃報を受け取ることも増えました。

身近な人が亡くなってしまったときと違い、自分がファンだった人が亡くなってしまったときは――未完成となってしまった作品に思いを馳せ、もう続きは出ないし二度と新しいものをその人が作り出すこともない、ということをしみじみと感じて、そのあとは生前の作品を折に触れて見たり聞いたりします。

もちろん作家さんや有名人の方の死自体を悼む気持ちはあるのです。
しかし私はその人たち自身より生み出した作品の方にたくさん触れているので、遺された作品に触れる方がずっとその死をリアルに冴え冴えと感じるようです。

仮にその人が生きていたとして、これまでも、そしてこの先も身近な存在になることは決してなかったはずです。
私にとっては、触れた作品がその方自身ですから、その人の新しい作品に触れられなくなってしまったことが悲しいのです。

しかし遺されたものを楽しめる限り、二度と触れられない人でないことにも安堵するような、そういうどこか不思議な気持ちで死を悼んでいます。