トワイライツ・ノーツ

読書感想と自転車と雑記

東日本大震災の時、私は何をしていたか

あの日から、ブログに何を書いていいのか悩み、書いては消し、また書いては消し、ということばかりしていました。

日常のブログを始めるにしても、あの日の出来事に一切触れないでいる訳にはいかないと、もやもやしたしこりのようなものが胸の片隅にいつもありました。
何かしらの形を残さないと、きっと区切りが付けられないと感じていたのでしょう。

けれど、何を書いたらいいのかで行き詰まり、結局は身の回りで起こったこと、思ったことを書くことに決めました。

2011/03/11の、15時30分頃。
私が感じたのはせいぜい震度4強程度のものだったけれど、何だか気持ちの悪い揺れ方をしていました。ちょうど家にいて、原稿を書き終わって見直しをして、メールで送り終わった後のことでした。
実家は大丈夫かなと電話をかけてみるも、繋がらない。
地震があったからだろうと考えて、伝言代わりにメールを送るだけに留め、パソコンでTwitterを開きました。

メールに返信をして、本棚が揺れていることを呟いて、そこでやっとタイムラインを見ました。

マグニチュード7とか8とか9とか、そんな数字が流れている。阪神・淡路大震災はマグニチュード7台だったから……と思ったところで、何か大変なことが起こっているのだと気付きました。

慌ててテレビを付けると、宮城県で大きな地震が起こったというニュースでもちきりでした。

その日の夜親とようやく連絡が取れ、また、普段は電話などかけて来ない伯父が親戚中の安否を確認しているようでした。

仙台の親戚も一家全員無事でしたが、小さな子供2人を抱えての避難所生活は、色々大変だったと思います。

知人は帰宅難民となっており、近くの学校に避難したりしていたと聞きました。

それから2日程、常備してあった保存食を食べて、家からは出ずにテレビにかじりついて過ごしました。

この時期辺りに原発の問題も持ち上がり計画停電も実地され始め、「これから日本はどうなるのだろう」という言い知れない不安に襲われました。

2日ぶりに外に出ると、スーパーやコンビニの棚から食料品・電池・生活用品が姿を消していました。
具体的には、米、水、パン、おにぎり、パックのご飯、トイレットペーパー、電池、防災用品、カップ麺が主なところです。
生鮮食品は残っていましたが、日が経つにつれ、牛乳、納豆、豆腐、ヨーグルトの不足も目立ってきました。

後は、ガソリンスタンドにも長蛇の列ができていました。

町の様子は、節電のためと駅や店の看板の電気が消え、エスカレーターも止まり、いつもより薄暗くなっていました。

ネットには『不謹慎だ』『自粛せよ』という言葉が溢れ、だんだんと頭が痛くなってきたことを覚えています。

不謹慎と言われようが日常は送らなくてはいけないのに、食事を取ることも、笑うことも、電気を使うことも、あるいはブログを更新することも――『不謹慎』の一言で『自粛』を求めるのは、いくらなんでも行き過ぎではないかと感じました。

そして原発。
これは、手を出してはいけない技術だったのかも知れないと私は思い始めました。
日本は地震の多い国なので、いくら策を練っても今回のような大きな地震など、不測の事態が起こる可能性が高い。国土も狭く、逃げ場が少ない。
また、今回のような事故が起こった場合に支払うリスクが、あまりにも高すぎすると感じました。
何十年も続く汚染。多くの人達が、被曝しながらの作業。原発から数十キロ以内が危険域となり、ゴーストタウン化。
私に子供は居ませんが、こんなものを将来管理させたくないと考えました。私だって管理したくありませんし、被曝するのも嫌です。

今すぐには無理でも、徐々に別のエネルギー供給方法に変えていかなくてはいけないのではないでしょうか。例え、以前ほど明るい町に戻れなくても。

以上が、地震が起こってからしばらくの私の行動と、考えたことです。

これで心理的に区切りが付いたかなと言えば微妙なところですが、明日からは通常運行していく予定です。

地に足を付けて日常を送り、その上で募金なりその他の支援なりをすることが一番良いと思うからです。