トワイライツ・ノーツ

読書感想と自転車と雑記

“教育”にかかる見えないお金

同居の妹が大学生なのだけれど、本当に教育にかかるお金というのは多いのだなあと思う。

大学の学費や入学金、教材費の他の『あらかじめ可視化できないお金』というのがかなり多いからだ。

例えば妹の場合だと、まず入学してすぐ講師から『プリンターとパソコンが必要である』と言われた。
何故なら、学校の連絡事項は専用サイトを通じて行ったり、課題をWord文書で提出したり、授業に必要なプリントをあらかじめ印刷して持って行く必要があるからだそうだ。

一応学校のパソコンなりプリンターなりを使うこともできるそうだけれど、使える時間や印刷できる枚数が限られているのだそうで、この時点で『パソコンとプリンターを持たない人』にはかなりのハンデがある。

次いで、レポート作成のために『指定の本を入手しなさい』という指示があったりする。
この指定の本というのは学校の図書館に蔵書がある場合、運が良ければ借りられるが、少しでも出遅れるともう『単位のために』購入するしかない。

サークルに参加すれば、部費の他合宿費用やその他必要なお金を出す場面も多い。

資格を取るための費用もかかる。

こういうお金を出していると、本当に10万20万はあっという間に消えてしまう。


横から見ていると『大学』という場所はこういうお金をさも当然のように出させるけれど、この時点で『高等教育』というのは『一定水準以上のお金を持つ人』に向けられているのだなあと思う。

一定水準というのは、入学金・学費を払った上で子どもにパソコンなどを与えられる余裕があって、しかも不意の出費(数千〜数万)ができる環境のこと。

でも、確かにそれは当たり前ではある。世界を見渡しても、お金のある人は教育を受けられて、お金のない人は教育を受けられないというのは事実としてそこにあるから。

日本という国で暮らしている以上、私はこれまではあまりそういうことを意識せずに済んできたのかも知れない。

けれど、きっとこれからはますますその落差が広まっていくんだろうなあというのは、教育を受けている人が近くに居る分、肌で感じている。

多分、一生懸命入学金や学費をかき集めて入った人ほど、『見えない教育費』に愕然とするのだと思う。
入れた、と安堵したのも束の間、それらがまるで波のように押し寄せてくるのだから。