読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

トワイライツ・ノーツ

日記と本と、時々Web

『姪っ子のごんぎつねの感想が問題になっているんだが・・・』を読んだ

雑記

姪っ子のごんぎつねの感想が問題になっているんだが・・・
http://alfalfalfa.com/archives/6502118.html


全文まるまるは無理だから要点かいつまむ

・やったことの報いは必ず受けるものだ
・こそこそした罪滅ぼしは身勝手で自己満足でしかない撃たれて当たり前

勿論身勝手やら自己満足なんてワード実際に使っちゃいないぞ
文章読んで端的に言うとそういいたいんだろうってことな
特に二つ目が物議を醸しているらしい・・・

        • -

勇気を出して本人の前に行って栗出してればこんなことにはならなかった
面と向かうことから逃げたせい

言い分はこうらしい・・・

姪はとにかく、撃った男が可哀想だろって主張なんだと
ごんぎつねのが可哀想みたいな空気の意味がわからないって

を読みまして、『感想』としては間違ってはいないのだけれど……と思い、改めて原文のごん狐を、恐らく数年ぶりに読み返しました。

ごん狐-青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000121/files/628_14895.html

大人になって読むとまた味わいが違うものですが、簡潔にまとめると『すれ違い』『償い』『申し訳なくて顔が出せない』『もの悲しさ』辺りが『教育上』のキーワードかと思います。


国語の『正解』について

私自身、比較的国語や道徳は得意な方だったのですが、『個人の意見』を打ち出したことは少なかったと思います。ですが、それで点は取れていました。

しかし、国語の心情理解(読み取り)に100%の正解はありません。
よく出題される『この時○○はどう思っていたか』、『作者が伝えたいことは何であったか』という類の問題の正解は、あくまで『出題者の考える正解』でしかありません。

『作者が伝えたいこと』はあくまで作者にしかわかりませんし、登場人物が何を思っていたのかも、真実を知り得るのは作者のみです。
ところが、教科書に載っているお話は既に作者自体が亡くなっているものばかりですし、所謂『出題に対する正解』も、『作者に問い合わせた』ものではありません。
だから、その『正解とされる解答』は『出題者の考える正解である』という視点を持たなければ導き出し辛いです。

この姪御さんに出された『感想文を書きなさい』というのは、結局『出題者(この場合は教師)の考える正解を推測すること』、それ自体が求められるという話で。
身も蓋もない話ですけれど、現状の国語の授業一般で重視されるのは、『出題者である教師の意図(或いは世間の一般的な反応)に収まるように組み立てること』です。

私自身、国語の点数は比較的良かったのですが(読み取りについてはほぼ常に8割〜9割以上の正解率です)、回答を考える時はいつもそれを念頭に置いていました。
何だかこう書くと非常にひねた子供でしたが、他の子も無意識か意識的かは置いておくとして、そうやって正解を導き出していると思います。

教育者の求める『感想』

恐らく、教育者側としては『感想』の一言に以下のような期待を(意識的にせよ無意識的にせよ)持って『感想文を書きなさい』と言ったはずです。

(1a)『ごん』と『兵十』、両視点からの心情(文章)理解(共感)
(2a)『作者がこの作品で表現したいこと』を推測
(3a)上記2点を行った上で『教育者が期待している答え』を推測して、作文にする

ところが、姪御さんの答えは綺麗にこれらを飛ばして辞書的な意味での『感想』を述べたものです。
しかもその答えが『悪いのは狐でしょう』『何で堂々と兵十に会いに行かなかったのか』という、『教師の常識にそぐわないもの』だったから、親に連絡した、という顛末ではないかと思います。

辞書的な意味での『感想』であれば、姪御さんの解答や、(多くの人はいい顔はしないでしょうが)『狐が罰を受けて、いい気味だと思った。兵十は仕返しができたのだから、喜ぶべき』という『感想』も、ありと言えばありです。
が、それは学校教育上受け入れられない解答かと思います。

考えてみると、『感想文を書きなさい』というのはそれだけでかなり高度なものですけど、1a〜3aまで段階を踏んで辿りつけるように『誘導』をかけるのも教師の仕事ではないでしょうか。
他で問題になるようなことは聞いていない、とのことなので、教師が誘導に失敗してしまった、という話でもあるような気がします。
(むしろ、教師自身が『感想文』と言いつつ『解答文』を要求していたことに気付いていなかったのかも)


が、別段学校教育やこの教師を批判したい訳ではないので、それは置いておきます。


国語や道徳の読み取りで何を学ぶのか

ところで、上の1、2、3はコミュニケーション上大事だと思うのです。

(1b)他者の立場に立って考える
(2b)他者の意図の理解
(3b)人に合わせた返答をする

3bは、やり過ぎれば主体性がなくなってしまったり、その場凌ぎの誤魔化しなどのずるい考えにも繋がりますけれど。
それでも、円滑なコミュニケーション上、どうしてもある程度は訓練の必要はあります(私自身文章上ではともかく、口頭での3はかなり苦手なのですが……)。

道徳も同じですが、1a〜3aを重ねることによって、目指すのは1b〜3bの習熟でしょう。


と、考えたことを書き流してみましたが、これでは『国語は楽しい』とは思いにくいでしょうし、上記1a〜3a、1b〜3bが苦手な子にとってはなかなか辛いものがあるのかも知れません。
特に3aや3bは『ずるい考え方』『媚を売っているようで嫌』と馴染めない子もいるでしょうし。

行き過ぎれば思考の押し付けや個性を殺してしまう、という問題もありますし、苦手な子や、拒否感が出る子も居るでしょう。
とは言っても、社会生活を営む上で必要な『技能』として、ある程度は必要な面もあるかなあ……とも思います。難しいですが。


余談

姪御さんの発言の中で、

勇気を出して本人の前に行って栗出してればこんなことにはならなかった
面と向かうことから逃げたせい

というものがあったらしく、これは『問題解決の方法』だなあと思って、それが実行された『在ったかも知れない未来』をふと考えてみました。
兵十は、狐を許すような気もしますし、或いは最初は許せなくても長い時間をかけて狐が償う様子を見て、少しずつ気持ちがほぐれる、というような未来もあり得ます。
または、怒りに任せてその場で狐を撃ち殺してしまう、というのもあり得る話です。


答えは出ませんが、物語の楽しみって、色々な解釈があったり、少し変えるだけで『在り得たかも知れない未来』が想像できたり、100%の正解がないところではないでしょうか。


物語を読むのが好きな一個人としては、国語や道徳は、『教育者の考える正解を導き出させる練習』以外にも、そこから発展させて色々な楽しみ方ができるし、ひとつのものにも多くの考え方ができる、と教えてあげるものでもあって欲しいな、と思います。

姪御さんみたいな考え方から発展させて、『この先どうなると思う?』と意見を出し合ったり、『ごんはどうすれば良かったと思う?』など解決の方法を考えたりするのは、楽しいものですから。