トワイライツ・ノーツ

読書感想と自転車と雑記

『私』が邪魔な時がある、という話

何かの出来事を説明するのに文章を書いたり話したりする際、『私』が邪魔でしょうがない時があります。私自身がその出来事に何か感情を持っていた場合、どうやってもにじみ出てしまうからです。特に不快なことであればなおさら。

今回はそんな話です。

どうやっても主観を交えないのは難しい

感情や主観を交えず、起こったことや情報を過不足無く話したり、書けるようになれればいいんだけれどな……と常々思うのですが、あまりに行き過ぎるとただの羅列となって、つまらないものとなるでしょう。なので理想を言えば、読み手や聞き手には情感や情報をきちんとを伝えつつ、主観は排除したような書き方や話し方、ということになります。

その練習としては、たぶん小説の三人称視点などはうってつけかとは思うのですが(いわゆる『神の視点』)、それでも中心人物に寄ってしまいがちです。『神』の立ち位置が定まらないと描写しづらいから起こるのですが、要するに『神=カメラ』と捉えた方がわかりやすいでしょうか。

たとえば、『空の高い位置を鳥が飛んでいる』という描写があったとして、『それはどこから見ていると思いますか?』と問われれば、大抵の人は登場人物の身長程度――地面から1.5メートル~2メートル範囲の視点を思い浮かべるのではないでしょうか。

そして、登場人物たちの心情まで自在に描写できる『神視点』の三人称であっても、物語の『目的』がある以上はやはりどうやっても作者の主観というのは出てしまいます。

話したり書いたりすると、どうしても自分の主観に引きずられて、強調したいところや、逆にほとんど注目していないなど、濃度の差が出てきます。

ただ過不足無く伝えたいだけであって、それには勝手にそんな濃度をつけたがる『私』がすごく邪魔なのです。

どの視点からも等分に距離を置きつつ、客観的に必要な情報は漏らさない、そういう文章なり、話し言葉を使うことができたらいいのに、とよく思います。

余談:『私』が含まれたその人ならではの表現も好きです

あくまで自分が書いたり話したりする時の話であって、ブログでは『私』無くそうというのはあまりしていないです。ただ、ともすれば批判とか誰かを責めるとか、そういうことに繋がりそうなことを書く際は気をつけたいと思っています。

人のブログや本を読むのも好きです。個性のすごい人は「すごいなー……」と思ってみていますし、個人的に大好きな文章の書き方をしている人というのもいます。

ただ、仕事や何かを説明する時に「ああ、すごい『私』が邪魔だ……」と思う時が度々ありまして、今回の記事を書いてみた次第です。

昨日の書評記事でも少し触れましたが、特に文章を書く際は『職人』に近づきたいなと、そんなことを思います。

昨日の書評記事

【書評】プロ書評家が教える 伝わる文章を書く技術 - たそがれノート