トワイライツ・ノーツ

読書感想と自転車と雑記

こちらだけが知っている人の訃報を受け取る、ということ

三十路まで生きると、それなりに訃報を聞くことが増えてきます。

私が訃報を聞いた一番古い記憶は、小学生の頃。
親の知人の息子さんで、小さな頃に私も何度か遊んでもらったことがあるという人だったそうです。
しかし当の私は息子さんのことは覚えておらず、また『死ぬ』ということについて実感を伴っていませんでした。

もちろん、それまでに読んできた物語の中で登場人物が死ぬということは何度かありました。

死ぬというのは、
息をしなくなって
心臓が止まって
二度とその人とお話ができなくなって
周りの人がすごく悲しむこと
ということは知っていたけれど、まだまだ自身の感情には結びついてはいませんでした。

息子さんが亡くなったのは突然のことで、お通夜のときにまだ生前のままの部屋に入れてもらったと記憶しています。
特に散らかりすぎてもいない、逆に片付き過ぎてもいない人の気配がどこかに残る部屋を、悲しそうに見ている人たちが印象に残りました。


その後も時折父母の知人や友人のお葬式に参加し、自分の身近なところでは祖父が亡くなり――そして好きな作家さんや有名人など、自分だけがお相手のことを知っている人の訃報を受け取ることも増えました。

身近な人が亡くなってしまったときと違い、自分がファンだった人が亡くなってしまったときは――未完成となってしまった作品に思いを馳せ、もう続きは出ないし二度と新しいものをその人が作り出すこともない、ということをしみじみと感じて、そのあとは生前の作品を折に触れて見たり聞いたりします。

もちろん作家さんや有名人の方の死自体を悼む気持ちはあるのです。
しかし私はその人たち自身より生み出した作品の方にたくさん触れているので、遺された作品に触れる方がずっとその死をリアルに冴え冴えと感じるようです。

仮にその人が生きていたとして、これまでも、そしてこの先も身近な存在になることは決してなかったはずです。
私にとっては、触れた作品がその方自身ですから、その人の新しい作品に触れられなくなってしまったことが悲しいのです。

しかし遺されたものを楽しめる限り、二度と触れられない人でないことにも安堵するような、そういうどこか不思議な気持ちで死を悼んでいます。