『健康で文化的な最低限度の生活』は、『貧しい生活』とイコールではない
@pukuma
日本は生活保護の受給者に海外旅行までさせているおめでたい国ですね。生活保護は給付水準を切り下げるべきだ。ぎりぎりの生活しかできない程度まで締め上げれば不正受給者が激減するだろう。1日の食費など(私と同じ)300円もあれば十分です。
(引用:http://twitter.com/#!/pukuma/status/28204570735808512
)
最近こんな発言がホッテントリに入っているのを見て、少し前の
【生活保護】携帯代25,000円、食費50,000円の佐藤さん 「受ける側に何が必要かを考えてほしい」
http://news4vip.livedoor.biz/archives/51385573.html
を思い出しました。根本的にはこれらの反応は同じだと感じるのだけれど、そういえば“健康で文化的な最低限度の生活”というのは一体どんな生活なのかと思いました。
そもそも憲法では、
第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
(引用:http://www.houko.com/00/01/S21/000.HTM)
と定められています。
つまり、生活保護というのは『健康で文化的な最低限度の生活』を維持することが困難な人に向けての支援です。
けれど、この『健康で文化的な最低限度の生活』がどの程度の範囲までカバーしているのかはまだ答えが出ていないのが現状のようです。
お金を与えずに、現物支給で良いという考えも見かけます。
という訳で、個人的に少し考えてみることにしました。
まず、【文化的】と【健康・最低限度の生活】に分けてみます。
この辺りを一緒にするから、余計に混乱していると思ったからです。
『健康・最低限度の生活』とは
最低限、特に病気や持病のない人間が健康を維持しながら生活するにあたって必要なのは、衣食住の3つです。
これに関しては、コストを圧縮するために宿舎のようなものを作って共同生活が最も効率が良いでしょう。
基本的に一人暮らし程コストが嵩むものはない*1ので、多くの人が宿舎で共同生活してもらうのが最も費用が圧縮でき、費用の見通しも立てやすいです。
食事は、宿舎で大人数分作って配給するのがコスト圧縮できるかと思います。
衣類は古着でやりくりするか、同じものを大量生産して支給する方式が安価に済みます。
『健康・最低限度の生活』を低費用で実現させるには、最終的には『衣食住はみんな同じものを現物支給』という形となるのではないでしょうか。
『文化的』な生活とは
文化的という部分に関しては明確ではないですが、先進国基準とすれば主なところは教育・芸術・現代人の標準に即した生活水準ではないでしょうか。
この基準を元にもう少し細かく見ていくと、学校に行き教育を受ける、音楽を聴く、本を読む、絵画を鑑賞する、テレビを見る、携帯電話を持つ、年に一回程度は旅行へ行く等々……というのは充分に『文化的』な範囲ではないかと、私は思うのです。
つまり、生活保護世帯にどの程度の水準の生活を可とするか、というのは【文化的】の捉え方に大きく左右されることになります。
また、これは【健康・最低限度の生活】と異なり、個人にある程度自由にできるお金がなくてはできません。
旅行に行くのか、本を読むのか、音楽を聴くのか……そういった無数の選択肢の中からなにを選択するかも含めて、【文化的な生活】の範疇だからです。
現物支給では実現が難しいので、どの程度のお金があれば良いのか、という問題があります。
ワーキングプアと生活保護世帯
一方でこの手の議論につきものの主張として、
働いているのに生活保護世帯よりも収入が低く、満足な生活が送れない
といういわゆるワーキングプア層の問題があります。
こういったワーキングプアの人々から見れば生活保護世帯は明らかに『ずるい』し『自分達から搾取した税金で自分達以上の贅沢な生活をしているのは許せない』という感情を抱くのも仕方の無いことです。
しかし、これは『雇用問題』に振り分けられるべき議論です。
本来は『働いた分の正当な対価が受け取れない』という問題であって、『生活保護の人々が自分より贅沢な生活をしているのはずるい!』というのは感情論になります。
(そういう感情を抱くのを理解しない訳ではありませんが)
もしフルタイムで働いた場合、正当な報酬が受け取れているのなら給料はきちんと生活できるだけは受け取れるはずです。
ただ、生活保護世帯は『健康で文化的な最低限度の生活』の元に援助をされています。
しかし一方で、『労働をする者は生活保護世帯より水準の高い生活を保障する』という法律はありません。
なので、もし生活保護世帯より水準が低い生活を強いられているとすれば、それは
- 労働に対する正当な対価を受け取れていない
- 生活費に満たない程度しか働くことができない
ということであり、ワーキングプア層は明らかに1にあたるでしょう。
2は、労働するにあたり障害があるか職に就けない状態と考えられるので、社会的な保護を受ける立場だと思います。
そもそも、生活保護世帯は貰いすぎなのではないか
これもよく見かける議論です。
しかし国によって『健康で文化的な最低限度の生活』がどの程度であるか定められるまで、貰い過ぎとも少な過ぎとも言えないと思います。
基準がないものに関してどちらが正しいとは決められません。
個人的には現代で生活を送る上で、携帯電話くらいは認められてもいいと思います。また、たとえばどれだけ節約しても年一回の旅行もできないほどの金銭的な余裕の無さは、『文化的』の範囲を外れているように感じます。
不正受給者の問題
上の引用では、不正受給者を減らすためにはぎりぎりまで締め上げるのが有効ではないかとのことですが……どんな制度にも欠陥はありますし、締め上げたところでなくなりはしないと思います。
何故なら、“貧しい生活でも働かずに済めばそれでいい”という人は一定数存在するからです。
ましてや不正受給をしているような人にしてみれば“小遣いでも手に入ればよい”のですから。
かといって審査や支給額をあまりにも厳しくしてしまえば、今度はセーフティネットとしての機能を失いかねません。
必要な人に必要な分だけ、というのが理想なのでしょうが、セーフティネットという機能を前提に考えれば、一定数の不正受給はどうしても許容せざるを得ないところです。
……とここまで考えてきましたが、結局“文化的”の部分が明らかにされない限り、果てのない議論です。
けれど、【健康で文化的な最低限度の生活】は【貧しい生活】であってはいけないと思います。
『生活保護受給者は貧しくあるべきだ』という主張は『社会の役に立っていない分際で、自分達の税金で【食べさせて頂いている】存在なのだから、肩身狭く、申し訳ない気持ち一杯で生きているように』と言っているのに等しいです。
自分自身、別段立派な人間ではないのですが、そういうことをしたり顔で他人に要求はしたくないと考えています。
弱者を思いやりましょう、と耳触りのいいことを言うつもりではないのですが、先の見えない世の中や人生の中で、いつ自分がそのような立場になるかはわかりません。
たとえ慎ましくても健康的で文化的な生活を送る権利は、持っていたいものです。
*1:家賃、光熱費、その他住む場所などぶれ幅も非常に大きい