包丁を振り下ろす決定権が、相手にあることを忘れてはいけない
Hagexさんが刺殺されたという事件を受けて、様々な人が色々なことを書いています。
Hagexさんや容疑者について、私は語るべきことを持ちません。
ただ事件を知った際、私が一番初めに思ったことは、『怖い』ということでした。
インターネット上の発言は、コントロールがきかないことが多い
インターネットで発言している以上、その言葉は一体誰が見聞きするのか、コントロールの及ぶところではありません。
自分の発言が一体誰にどう受け取られるのか――そして、受け取った結果どういう行動に出るのかは相手が決定権を持っている、という当たり前のことを思い出しました。
たとえば、対面であれば多少はコントロールがきくこともあるけれど、対面で話しているのであれば、相手の声色や表情などのたくさんの情報から『これ以上は怒らせるかも知れない』というラインに気づくことは可能かも知れません。
また、相手の反応を見て物の言い方を変えたり――きつい言葉を表情や仕草で少し和らげたりということもできるでしょう。
誤解が生じそうな気配を感じたら言葉を足したり、より詳しく説明したりということも可能です。
ましてや――相手が刃物を持っていたら、間違っても怒らせようなんてことはしないはずです。
目の前にちらつく物理的な刃物はそれくらいの圧力を持っています。
だからといって、Hagexさんが不注意だったとは私は言えません。対面と異なり、インターネット上では読み手の情報を得たり、相手の様子を見ながらの調節はまず不可能だからです。
自衛はおそらく無理だったと思う
今回の事件は、気をつけること自体が無理だったように思います。
インターネット上での発言は基本的に読み手の情報を得ることも、言い方を人に合わせて調整することもできません。
自分の発言が一体誰にどう受け取られるかわからないし、その結果相手がどういった行動に出るかも予測は無理です。
価値観の違い、誤読・誤解、前提や環境の違い……など地雷は枚挙に暇がありません。
Hagexさんのように講演活動を行うのであれば、登壇情報を事前に明かさないということはまず無理ですし、自衛も難しかったと思います。
人間の楽観主義の功罪
大抵の人は自分が刺される程憎まれているかも知れないなんて、常日頃から考えてはいないはずです。
常にそんなことを考えていたら、何もできませんから、それは機能としては必要な楽観性です。
しかしインターネットで愚痴を吐いたり、リアルの顔見知りには言えないことを口にしてしまったりやってしまった経験は、誰しもあるのではないでしょうか。
元々インターネットに自由や匿名性などなく、本来リアル以上に注意深く振る舞う必要がある世界なのですが――大多数の人はそういった意識はないように感じます。
今でもインターネットは匿名で、個別のメッセージなどは見られないと考えている人は多いようですが、やりとりはすべて記録として残ります。
そして発言は、一体誰に届くのかわかりません。
闇雲にインターネットを恐れたり、やはりリアルの方が良い、と言うつもりは毛頭ありません。
けれど、包丁を振り下ろす決定権が相手にあることを忘れてはいけない、ということをひんやりと感じた事件でした。
またひとつ歳を取ったので
別に何でもない平日が誕生日だと、さほど特別なことをするということもなく気が向けばちょっとした好物を買ったり本を買ったりする程度で、大人になってからの誕生日というのはまあそこまで代わり映えのするものではありません。
唯一昨年と違う点は長年つきあっていた人がもう隣にいない、ということくらいでそれ以外は本当に変化もなく。
とはいえ、一年歳を取れば一年寿命に近づいているとも言い換えられるなあ、と会社帰りにカフェに寄って手帳を開きながらぼんやりと思ったのでした。
noteでこんな記事を書いたのですが、リストにあることを全部やるのはさすがに無理として、大きなところは死ぬまでにぜひやっておきたいなということで一番大きなものをピックアップしてみました。
■死ぬまでにやりたい一番大きなこと
海外で生活してみる
日本は嫌いではないのですが、死ぬまでに一度くらい外の国で生活してみたいな、とは思い続けています。なかなか機会に恵まれないのですが……。
希望としては湿気が少なくて英語が通じて、気候が涼しいところ……というざっくりな感じです。
とりあえず、ちょっとさぼり気味だった英語の勉強を再開しました。
還暦を過ぎた母が、あるひとことでスマホの使用に前向きになった話
私の母はガラケーを使っています。家にインターネット回線はなく、調べ物は基本的に図書館などです。
それで必要十分だし、スマホにして毎月7000円も払うのはもったいない、というのが主な理由です。
しかしそれでは少し不便だろう、ということでスマホの代わりとして古いiPod touchを譲ったのを機に、GoogleアカウントとAppleIDの設定をしました。
ところが母はExcelやWordは使えるものの、GoogleアカウントやAppleIDなどを感覚的に理解できない*1。
また、タッチパネルなどのUIに馴染みづらいらしく、なかなか触ろうともしません。
ボタンも押しづらいと言いますし、指先がカサついていると反応が鈍くなるようです。
とりあえず!
細かいことはいいから好きなメールアドレスとパスワードだけ決めて!
と何とか設定は済ませたのですが、で、それが結局なんなのか、なんのためなのか……というのはわかってもらえずじまいでした。
あれこれ登録するのに使えるよ、と言っても「でもどうせ使わないし……」と尻込み気味。
使っていけばその内ピンとくるだろうとは思うのですが、そもそも『使う』というスタートラインに立ってもらえない感じです。
色々言葉を重ねた結果、下記の一言がきっかけでなんだかこちらが拍子抜けするほど使用に前向きになりました。
私「友達とかからさ、写真送られて来ることあるでしょ?」
母「あるけど?」
私「Gmailに写メつきメールを送ってもらえば、パケ代がかからないよ。写真をパソコンとかiPod touchに保存したりできるよ」
母「! それって『写真はパソコンメールに送ってね』って言えるってこと?」
私「そうだよ」
母「便利だねえそれ」
私にしてみれば、家にインターネット回線はあって当たり前だし、PCメールに写真を添付するのに料金を気にするという意識がすっぽり抜けていたのですが。
基本ガラケーの母にしてみれば、人から送られてくる画像付きの『重たいメール』は悩みの種だったようです。
ガラケーでは綺麗な画質も望めないですし。
そういう訳で、単純なひとことが『重たいメール』『低画質』という悩みが解決するという大きな動機付けになりました。
この調子で徐々にスマホ代わりのiPod touchに馴染んでいってもらえれば、いずれ感覚的に理解はできるようになると思うのですが……その頃になったら今使っているiPod touch6を譲ろうかなあと考えています。
壊しても気にしない精神で好きに触ってもらった方がたぶんいい気がします。
まとめ
たった一言であれだけ嫌がっていたのが? と結構驚いたのですが、そういえば下の本を読んでなんとなく母が抱えている問題(パケ代が高くなるのは嫌だけど友人から送られた写真は見たい)に目を向けてみようと思ったのでした。
- 作者: デール・カーネギー,さいとうかずと,田中孝顕
- 出版社/メーカー: きこ書房
- 発売日: 2018/01/22
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人に物を売りつけられたとか、人の言いなりになったとか思うのは、誰でも嫌なものです。誰もが、自分の都合で、そして自分の意志で、物を買っているんだと思いたいのです。
引用:こうすれば必ず人は動く 「相手の心をうまくつかんで人を動かす」より
あと単純に、『見知らぬものになかなか馴染めない人』をよく見てみるのはデザインの勉強の一環として、興味深いものでした。
大きくまとめるとその原因は、
- 概念がわからない
- 必要性を感じない
- UIとしてわかりにくい・使いにくい部分がある
が主なところのようでした。
つまり今回の例でいえば、下記のような傾向がみられました。
- 複数端末を使い分ける機会がないため、共通で使えるアカウントという概念がわからない
- メールのやりとりをわざわざPCメールで行う必要性を感じない
- タッチパネルは身体的に使いづらいし、iPod touchや各種アカウントの設定もよくわからない
特にタッチパネルの使いづらさというのは私自身が意識していなかったので盲点でした。
動機がなければなおさら遠ざけるのは当たり前です。
最近はかなり色々なものがタッチパネル化していますが、どうも状況によってはベスト解ではなさそうだなあ、と思います。
こうして考えると、身近なあちこちに何らかの実践の種は転がっているようです。
*1:違う端末を使っても設定や情報が引き継げるってどういうこと? という感じ。そもそも複数の端末を使用するというのがどうも想像しづらいのが原因のよう